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戦後80年をめぐる研修バスツアー

いつもは自身でハンドルを握って走ることの多い国道58号線。


いつもより目線の高いバスの車窓から
北谷町~嘉手納町と、キャンプ瑞慶覧、嘉手納飛行場を眺めながら北上。

基地内に米軍のトラックがずらっと奥まで並んでるのが見える


かと思うと
フェンス沿いの樹木で隠れて見えなくなる

 

普段は車の走りとともにびゅんびゅん流れていく樹木は、
緑地としての役割ではなく
目隠しとして植えられているんだなと改めて思う

 


嘉手納飛行場となっているエリアは、地下水が豊富な田畑が広がっていたという


アメリカ統治下では、畑を基地にとられながらも耕作を続けるにはパスポートを持って自分の畑へ入ったという

今も一部残る、黙認耕作地の成り立ちを知る

 


バスは読谷村へ

 

集団自決(そこにいた者、家族どうしで殺し合う)という凄惨な最期で多くの命が失われたがチビチリガマ

 

米軍に捕まると、殺されたり辱めをうける、それならば…という最期の選択をした

 

陽のあたる車道から、下へ下へとおりていくと慰霊の碑や鎮魂のための像が点在し、ガマの入口の前で

 

平和ガイド糸数慶子さんの話を静かに聞く

 

 

 

一方、同じ読谷村にあるシムクガマは、

チビチリガマのような凄惨な状況にはならなかった

 

そこにいたハワイ帰りの2名が、「アメリカ人は人を殺さないよ」と説得し

ガマにいた、およそ1000人は捕虜となり生きることを選んだ


2人の実経験による言葉だったからこそ、

(酷いことをされる)という
恐怖を乗り越えて米軍の捕虜になり、生きることを選択できたのだと感じる

 

80年後のそこは、ただの山の緑と流れる小川、自然でしかなかった

 

 

佐喜眞美術館には、そのチビチリガマとシムクガマの絵もある

ふたつのガマで起きたこと、その対比をさらにイメージとして考えることができる

屋上から、美術館のすぐ隣のフェンスから広がる普天間飛行場を眺める

 

 

あっち側(基地)とこっち側(わたしの生活圏)

 

米軍基地があることは認識している
「軍用地」と呼び、売買をしているわたしもいる
長年解決されない問題があり
事件事故が起こり、ニュースで知る

 

が、

無意識に

基地は、わたしの生活には関係ない場所となっている

 

今回のように

沖縄戦で起こったことの話を聞くことで

すぐそばにある基地の存在が現れる

 

関係ないことはない

ということを思い出していきたい